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リレーコラムRelay column

リレーコラム

わたしのそぼです。

みんなの人生でだれでも一番あいしている人がいます。私も、この問題について話すとき、だいぶ皆はまずりょうしんのことを考えると思います。でも私はちがいます。まずそぼのことを考えます。皆おどろきましたか?じゃそぼのについてお話しましょう。

そぼは今年75さいです。だからそぼのかみのけが全部白くなりました。そぼは白いかみがだいきらいです。10年前は白いかみをみたときすぐ黒くそめました。でも今は白いかみでも大丈夫だといわれました。もう75さいから。そぼは細くて、あまりせがたかくない。顔にしわがたくさんでています。特別目の下所です。時問がたつにつれてとしをとりましたから、でも目がとてもいいです。めがねをかけないで本を読めるし、けいたいでんわが使えるし、それに遠くに見えます。すごいですね。本当に良かったです。皆のおばあちゃんは自転車に乗れますか。私のそぼは乗れますよ。今でもできます。どこかに行きたいとき自転車で使っています。そぼと22年で住んでいました。2さいから、そのとき妹が生まれた、後両親が忙しくて、それにお金がなかったから。そぼと住んでいました。今まで私は24さいです。3さいのときそぼがようちえんにつれて行きました。ずっと一日泣きました。行きたくなかった。ただ家にいたい。だから私のせいで、そぼはめっちゃ疲れていて、大変でした。小学校の一年生に入ったときじを教えてくれた人は先生じゃなかた。その人はそぼです。読み方と書き方を教えてくれました。難しくてもまじめに教えてくれました。私にとってそぼは私の母であるだけでなく。私の先生でもあります。本とかかばんとかふくとか全部そぼがじゅんびされました。白転車に乗り方を教えてくれました。1週問で乗れました。うまく乗れるように毎日。白転車で学校に行きました。そぼはあるきました。そのように私はそぼと一緒に学校に行ました。むかした戻れるなら、ぜったいにその事をしません。高校に入った時そぼもっと心配しました。学校は家から遠いです。からある日遅く帰ったとき、心配してよくでんわかけました。でもそぼを失望させました、勉強しないで。友だちから、わるい事をならいました。そぼはめっちゃ寂しかった。知っていたけど、変わらなかった。毎日そぼとあまり話しなかった。そぼはびょうきでした。その時まで、気が付いた。そぼは大切な人です。変わりました。まじめに勉強しないと、そぼの世話をしないと。そのあとは大学を合格できるように毎日勉強ただけぜんぜん出かけなかった。頑張りましたのに不合格でした、泣きました。そぼも、まだおうえんしました。若いから、きかいがあります。泣かないで、頑張ってねといわれた。でも勉強する事が辞めました。

家の近くに会社で働きました。20さい日木へ行ことを決めました。そのぼのいげんをききました。さんせいました。心配しても。いつもおうえんしました。後日本語を勉強に行って、日本へきました。行く前にいろいろなことといわれました。泣きながら言った。お元気で、いえにいつでもまっているって、3年問おわったら、かえってきてくださいねといわれました。言ったことをよくおぼえています。頑張ります。
かぞくのために、そぼのために、みんながっかりしないようにがんばります。私をおまちくださいね。

(グエリ・ティ・ハ/製造産業技術協同組合/キドフーズ株式会社)

 

※令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
グエリさんの作品は奨励賞に選ばれたものです。(内容は原文のまま、掲載しています。)
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

本当に美しい風景

日本に来て2年、千年の歴史がある道後温泉に行ったことがあります、夕方海辺で美しい夕日を見たことがあります、有名な下灘駅に行った、電車と海が一体となっているのを、見たことがあります。
しかし、この美しい風景の中ではまだ何かが欠けているように感じます。

私は介護技能実習生です。外国人にとって言葉は大きな敵です、職員と利用者にいろいろな日本語の問題を教えてもらいます。
“また、おいて”は、日本に来て初めて覚えた愛媛方言でした、私が働いている施設に認知症利用者が多いです、中国から来た技能実習生だと言ってから、利用者はすぐに私のことを覚えました、毎日挨拶をします、お仕事終わるたびに、利用者は私が中国に帰ると思って、とても惜しい表情をして、私に“また、おいて”と言って、またたくさんの親切な話をします、ほとんど私も理解できませんが、“また、おいて”私はわかります。これは私にとって更に心理上の温かみがあります、私のこの仕事は、私が利用者のお世話をするというより、実はみんなは知っていますか、利用者たちも同様に私のお世話をしていて、利用者が与えた肯定と信頼は私に対する最大のお世話です。
私にとって愛媛の美しい風景は施設の中だと思います。この風景には温かみもあり、感情もあり、仕事や勉強の原動力になっているので、地域の利用者に安心していただけるサービスを提供できるように一層努力していきたいと思っています。

帰国後も、この愛媛の美しい風景を中国の施設の利用者にお伝えしたいと思います、私と同じように、家を離れて、この温かみを帯びた風景に囲まれることができるようにしてもらいます。
だから、愛媛の一番美しい風景はどこにあるのかという疑問文ではなく、肯定的な言葉なのだ、施設の中にあるんだよ!最後に、この“また、おいて”を多くの外国人に伝えて、多くの人に愛媛の美しい風景を感じてもらえるようにお願いしたいと思います!

(涂様/えひめ介護ネットワーク協同組合/社会福祉法人白寿会 介護老人保健施設れんげ荘)

 

※令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
涂さんの作品は奨励賞に選ばれたものです。(内容は原文のまま、掲載しています。)
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

介護を選んだ理由

子供の頃、お婆さんとお爺さんと住んでいました。この二人は私をとても可愛がりました。お爺さんは毎朝起きたくない私を背負って鏡の前で踊ります。朝ご飯食べたら一緒にハンドルゲームをします。私が病気の時庭で綺麗な花を取って私の髪に飾ります。こんな生活は私が小学生になるまで続きました。私は小学生の6年生の時にお婆さんがなくなりました。お爺さんが一人で田舎に住んでいます。私が大学1年生になる時に、お爺さんはだんだん一人の生活が難しくなった。最初は両親はうちに来てくださいと言ったけどお爺さんが迷惑かけたくないから来なかったです。その後だんだんご飯も作れなくなってから、私の家に来て、お母さんが面倒を見てあげました。
最初はお母さんが毎日ご飯を作ってあげるだけで良かったです。お爺さんは天気のいい日に家を出て、他の老人者達と話をしています。1年後病気がひどくなって、歩けなくなった外にも出られなくなった。その時から、トイレ介助の必要があった。ご飯を食べる時も一部介助の必要になりました。
母は毎日8時から14時まで仕事をしています、仕事が終わったらお爺さんの世話をしています。毎晩お爺さんは何回もトイレ行くから、母も毎回起きます。こんな生活は2年も続いた、この間、母は1日の休みもないです私が学校が休みの時に母の代わりにお爺さんの世話をしたいけど、お爺さんは恥ずかしいので拒否した。

私の母国で、老人は施設に入りなくない。原因の一つは、みんな子供は親の世話をしないと親不孝と思います。もう一つは、老人施設の環境が悪いです。こう言う言い方があります、老人施設に入ったら、死亡を待っている。三番目は費用が高過ぎです。
日本の介護は中国より成熟しています。デイ、ショートステイ、グループホームの形があある。看護師さん、栄養士、リハビリ訓練師もいます。時時、みんな一緒にゲームをして利用者さんは毎日楽しそうに過ごしています。これは中国に足りないものです。
日本での同僚は、“私たちは毎日7.5時間、毎週2日の休みがあるのに大変と思います。家で親を世話する家族さんは昼も夜も、年中休みない。もっと大変よね”と言いました。
今から中国の高齢者がますます増えていきます、家族の力だけでの世話では無理です。だから日本で介護研修を選んだ、私の家のみたいな家族のために、なんとか役にたちたいです。

私は母国に帰ったら、いい施設を作って、もっと高齢者が幸せになれるように頑張ります!

(王霞/えひめ介護ネットワーク協同組合/医療法人順風会 ショートステイ星岡)

 

※令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
王さんの作品は奨励賞に選ばれたものです。(内容は原文のまま、掲載しています。)
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

意外なサプライズ

子供の頃の夢がまた未来のある日に現れるとは思いませんでした。大人になってからの生活は仕事が終わって何の変哲もありませんてした。私にとって子供の頃の夢は春の種のようなものでしたが、冬に種をまきに行って季節を過ごしました。しかし、私がまだ筆を手に入れることができると思うたびに、自分の白昼夢のような気がしてしばらくよく友達に聞いて「oh my god!!それは本当ですか?」彼女は私の頬をつねながら「本当だ。」と言って、頬は本当に痛いです。

去年、日本語の先生がアトリエに連れて行ってくれて、アトリエを見学するおばさんに会って、彼女は「こんにちわ。」私は答えて「こんにちわ。」と言いました。その後、日本語の先生は私を3階のアトリエに連れて行ってくれて、中国出身の絵の先生と知り合いました。会話の中で、先生夫婦は、有名な日画家で芸術創作のために20年以上日本に来て、ここを開いていること。本当に感動しました。彼らはその裏にはたくさんの苦労をしなければならなかったはずです。日本語の先生は私が描いたスケッチを先生に見せて、先生はそれを修正してくれて、どうすればもっとよく描くことができるのか、丁寧に繰り返し修正してくれ、教えてくれました。私の心中ではこのような先生は私たちが一生出合うのが難しいと思って、厚かましく先生に私は「よく絵を勉強しに来てもいいですか?」先生の答えは、「あなたはよく勉強して、スケッチができて山水画も大丈夫だと。」言い、その時の私はとても楽しく興奮してどうやって家に帰ってきたのかわからなくて、夢のような気がしました。その後日本語の先生は私が絵をよく勉強出来るように、私に大きな助けを提供して、筆墨紙絵具などの絵を描く道具を用意してくれました。1時間目に描いたものは蘭ですがペンをうまく持てなくて曲がった絵を描いています。先生はたくさんの知識を話して「初めて絵を描くことがゆっくり上手になる。」と言って、たくさん練習して、たくさん見て帰った後、友達は私の絵を見て「これは何ですかニラですか?」「いいえネギです。食べませんか。」
私は時間があれば練習しています。今は梅の花を勉強中です。難しいですが頑張ります。先生のアドバイスを思い出しながら。

(譚 彩云/えひめファッション産業協同組合/株式会社サンブライト)

 

※令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
譚さんの作品は奨励賞に選ばれたものです。
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

 

GO TO JAPAN


私はトイと申します。ベトナムから来ました。日本に来て、丁度1年になりました。生活や仕事にも少しずつ慣れてきました。
日本は非常に綺麗な国です。今私が住んでいる所は、美しい島国です。海は澄んでいて、緑のヤシの木が並ぶ通りはとても綺麗で、ごみもありません。夏になると、私は友人と一緒にサンセットビーチへ泳ぎに行きます。秋になると、しまなみ海道でサイクリングを楽しんでいます。私達にとってこの島は、自然豊かで、ベトナムの故郷を思い出させてくれます。日本の春も素晴らしいです。至る所に桜が咲いていて、暑いベトナムの気候に比べて涼しい気候は快適です。私はそんな大好きな日本の写真を沢山撮って家族に送り、自分が働いている日本の美しさを知らせています。
家族のみんなは喜んで、そして私が元気なことに安心をしてくれています。

私の住んでいる所には、耕三寺という有名なお寺があります。毎日多くの観光客が訪れますが、最近コロナウイルスのせいで来客が少なくなっています。私も興味があり、お正月に友達と初詣をしました。そして、お寺の近くにある美味しくて有名な食べ物を食べてみたいから、しおまち商店街でコロッケと、ローストチキンを食べました。コロッケの外はパリパリで、中のジャガイモはホクホクで、とても食べやすいです。ローストチキンは甘すぎず、しょっぱすぎない絶妙な味のタレにしっかりとした鶏の触感。うまい!!食べながら店頭に張られたチラシなどを見ると、友達にも紹介したいなと思いました。この島は、食べ物も景色も私にとって最高な場所です。

私の仕事は、船舶の塗装です。夏はとても暑く、冬はとても寒いので大変です。しかし、今ではだんだん慣れてきました。会社の方から熱心に教えて頂き、仕事の間は厳しいですが、休憩時間になると友達の様に話をします。みなさんとても優しくて、気さくです。私は笑顔の日本人が大好きです。スーパーや郵便局、病院に行ってもとても親しみやすく、日本語があまり分からない私に、ゆっくり教えてくれます。また、日本での生活の中で日本人のマナーの良さを感じました。例えば、「子供たちが横断歩道を渡る時に、車の運転手に会釈をして渡ります」、「電車、バスの中では電話はしません」というマナーは日本では当然の事ですが、私の国ではそのようなマナーはありません。

私は毎日仕事が上達するように、そして隣人や会社の友達ともっと上手に話すことが出来る様になるために、日本語を頑張って勉強をしています。日本人はとても優しくて、フレンドリーなので大好きです。仕事で疲れてホームシックになる時もあります。しかし、人生はたった一度きりです。私は仕事で多くのスキルを学び、三年間しっかりと勉強をし、笑顔で毎日仕事に行きたいと思っています。日本に来ることが出来て、そして色々なことを学ぶことが出来て、本当に嬉しいです。

 

(ダウ ドゥック トイ/協同組合友愛会/有限会社岩重塗装)

 
※令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
トイさんの作品は奨励賞に選ばれたものです。
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

 

「決して忘れない」

私はの名前はホア。今年26才です。
私は3号として再入国をしました。日本で仕事をするのは今回2回目でうれしいです。
ラッキーなことに私は友人といっしょにきました。
彼女との出会いは4年前。母国の日本語学習センター人学試験の後。名前はリイ。静かな人です。今でもはつきり覚えています。部屋が同じで最初に話した時に知ったこと。あなたは私より年下ということ。
それ以来、私たちは姉妹です。つねに一緒に勉強してトレーニングします。不幸なことに訓練を始めた後グループ分けで私たちは別々になりました。がっかりします。あなたは振り向いて「同じグループをお願いします。妹、妹。」と言いました。大丈夫かどうか分からない。結果、私達姉妹は同じグループになりました。とても幸せです。

ベトナムでトレーニングを終えた後、日本へのじゅんびを始めました。日本ではたらくための3年間の旅です。日本に着いたとき、私たちはいつもいっしょにがんばる事を約束しました。けんかをする事もあります。お互い腹を立てます。しかし。私もリイも5分以上おこっていません。幸せな時間に2人の姉妹は幸せに笑います。日本での3年間の旅を終える頃、ベトナムにもどる前に姉妹は時々すわってお互いに話しました。
あと2年は日本に帰りたいという思い。ラッキーなことに私達は元の実習場所へ戻りました。知り合いがいる、あなたとも一緒。身近なものに戻る喜び。倍増の喜びです。

私は3号の2年間は更に技能を高めて完了する必要があると考えています。家からははなれる時は家族のために一人一人、様々な状況にあります。実習のために遠い場所へ来た時全員で団結しなければなりません。一人一人が自分のためのレッスンを受けます。あらゆる努力が価値を生み出します。いずれにせよあなたと一緒にすべてを乗り越えるでしょう。私たちはさらに成熟します。

日本は第2の故郷のようなものです。実習場所は私たちを1つにまとめます。面白い話とともに面白い友だちがいます。休日の午後は料理をしたり、バトミントンをしたりします。笑いは1日を始める動機を与えます。日本での時間を大切にしています。この場所は私たちが成長するのに役立つから。
最初日本へ行きたいと思った時のことを今でも思い出します。母は同意しませんでした。理由はたぶん結婚を心配したのでしょう。空港で母はよく泣きました。私は母の流した涙の分まで強くなりました。私は母の時に母は反対しませんでした。笑顔で見送ってくれました。再入国、私はそれが正しい選択であることを知つています。妹リイと一緒である実習の時間、公園への散歩の時間。すべて私の大切な時間です。一人一人の人生が幸せになることを願つています。一緒に過ごした貴重な時間をいつまでも、思い出すでしょう。忘れてはいけない目と年。

 

(グエン ティ ホア/えひめファッション産業協同組合/千昇実業有限会社)

 

令和2年度、愛媛県外国人技能実習生受入組合協議会では、県内の技能実習生を対象とした日本語作文コンクールを実施しました。
ホアさんの作品は奨励賞に選ばれたものです。
愛媛県中小企業団体中央会HP http://bp-ehime.or.jp/
なお、作品集は愛媛県国際交流協会でも閲覧することができます。

 


【画像をクリックすると、Youtubeページに移動します】

この動画は令和2年度第2回外国人生活支援ネットワーク会議のために作成したものを、外部公開用に編集したものです。
ビデオインタビューとして、李 夏埈(イ ハジュン)さんが協力してくださいました。
愛媛で活躍する李さんからのメッセージです。ぜひ、お楽しみください!

 

 

 

「日本語パートナーズ」短期派遣事業 現地レポート

独立行政法人国際交流基金アジアセンターでは、アジアの中学・高校などの日本語教師や生徒のパートナーとして、授業のアシスタントや日本文化の紹介を行う日本語パートナーズ派遣事業を実施しています。

「日本語パートナーズ派遣事業」は派遣期間が半年以上の長期派遣が基本ですが、2021年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けて、マレーシアのホストタウンとなっている愛媛県内の大学生が短期派遣事業として派遣され、現地の大学で日本語を学ぶ学生たちと交流を深めました。

現在、活動の様子を記した報告書が独立行政法人国際交流基金アジアセンターのホームページでご覧になれますので、ぜひご一読ください。

URL https://jfac.jp/partners/voice/report/tanki-ml-01/

 

 

 

 

西条市国際交流協会では、ダイアナ・マリー・リントンさん(本年3月21日当協会リレーコラムに寄稿)と、グエン・ブイ・アン・ティーさん(本年4月2日にリレーコラムに寄稿)の動画を配信しています。
国際交流員として、西条市の国際交流や異文化理解に寄与しているおふたりの力作ですが、とくに、地域の多文化共生について考えさせられる内容です。
ぜひご覧ください。

西条市国際交流協会HP http://www.saijo-iea.jp/

https://www.youtube.com/watch?time_continue=12&v=i3gBD0ywqxs&feature=emb_logo

メッセージ Message

瞬く間に半年が過ぎて行きました。令和最初の夏、熱気溢れる「男祭り」で有名なこの新居浜市に国際交流員として着任した日を今でも覚えています。漂うみかんの香り、湿った夏の空気、次から次へと上陸した台風、どれもインパクトが強かったのですが、何より印象に残ったのは、それらに負けない地元の人々の温かさと優しさでした。行く先先で「愛顔」で迎えられて、愛媛の皆様の温かい歓迎が心に響きました。これがいわゆる日本の「おもてなし」というものなのでしょうか?

「お・も・て・な・し」という言葉は、テレビアナウンサーの滝川クリステルさんが2013年に国際オリンピック委員会(IOC)の総会で発言したことから、世界に広まりました。オリンピックに向けて、日本がより多くの外国人観光客を迎え入れるために具現化されたこの素晴らしいサービス精神は、都会から地方まで、日本全国で味わうことができます。海外から来たお客様が日本を最大限満喫できるように様々なイベントや企画をたてたり、また、皆の安全が確保できるように外国人のための防災対策などに取り組んだり、地方行政や地域コミュニティが一生懸命歓迎しようとしたりしているのをみて、非常に感動しました。
……日本も変わりましたね。

私が日本に留学しに来たのは、2007年、春のことでした。当時、外国人の数は今ほど多くなくて、その珍しさからなのか、登録上で「エイリアン※」として分類されていました。特に、私のようなヒジャーブを被っている東南アジアのムスリム女性は、どこに行っても注目されて、時には警戒されて、コミュニティに溶け込むことはなかなか難しかったです。世界中で起こっていたテロ事件の影響で、テレビに映っている悪い人たちと似た外見を持つ者が恐れられるのも無理のないことかもしれませんが、お互いの国や文化、宗教などに対する理解が足りなかったことから生まれたスティグマを打ち破ることができなかったのはとても悔しかったです。これはもちろん、美しい思い出に満ち溢れた留学時代のごく一部の経験に過ぎませんが、この経験があったからこそ、国際交流員としての今の自分がいます。

日本にいる外国人の数は7年連続増加していて、新居浜のような小さなまちでさえ、約1,400人にのぼる外国人が在住しています。これは、1、2週間で帰国する「お客様」ではなくて、今現在、一緒の職場で働いている「同僚」、一緒のアパートに住んでいる「お隣さん」の数を示しています。果たして日本は、こんな多くの外国人をコミュニティに受け入れる覚悟はできているのでしょうか?知らない外国人が増えているのは、地元の方々にとって非常に不安なことだと思いますが、外国人を代弁して心の声を伝えますと「私たちも、慣れない国で暮らすのは不安です。」。こんな時に、一緒に暮らしていくには、どうすればいいのでしょうか?

私の母国マレーシアでは、こんなことわざがあります。“Tak kenal maka tak cinta”、「知らなければ愛せない」という意味です。人は知らないことを恐れる傾向があります。理解できないから怖い、怖いから嫌い、この繰り返しから抜け出す方法はただ一つ:お互いのことを知り、理解し合うことです。それができるのは、国や政府による政策やルールを通してではなく、私たち、市民一人一人が一歩を踏み出して、お互いのことを知ろうと思う心を持たなければはじまりません。一人一人が目と心を開けば、ゆっくりと確実に地域にも影響を及ぼして、やがて皆にとってより暮らしやすい社会を作ることができると信じています。

「人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたを創り、さまざまな種族と部族に分けた。それはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。(後略)」
第49:部屋章 第13節

(ファラ・マンスル)

※2012年まで使用されていた「外国人登録証明書」は、英語で “Certificate of Alien Registration”といいます。“Alien(エイリアン)”とは、英語で「外国人」または「異星人」という意味もあります。
※本稿で示した見解はすべて筆者個人のものであり、筆者の所属する組織の見解を示すものではありません。

Half a year has passed in a blink of an eye. I still remember the day I arrived here in Niihama, a city famous for its “Man Festival”, as the Coordinator for International Relations (CIR) on the first summer of the Reiwa Era. The lingering scent of mikan, the humid summer air, the endless typhoons, all left a strong impression, but what was even more memorable than all that, was the warmth and kindness shown by the local people. The smiles that await me everywhere I go, and the warm welcome received from the people of Ehime was truly overwhelming. Is this what they call the Japanese “omotenashi”?

The term “omotenashi”, or the Japanese hospitality, was made famous by Christel Takigawa, a Japanese TV announcer, during her presentation to the International Olympic Committee (IOC) in 2013. Today, one can have a taste of this wonderful spirit of hospitality all over the country, from the big cities to the country sides, as Japan prepares to welcome more and more foreign tourists towards the Olympics. I was very impressed to see the efforts made by the local government and local community in planning various events and projects so that visitors can enjoy Japan to the fullest, on top of implementing disaster relief measures for foreigners to ensure the safety of all during their stay.
……Japan has changed.

I first came to study in Japan in spring of 2007. At that time, the number of foreigners was not as large as it is now, and were literally classified as “aliens”. For a hijab-donning Southeast Asian Muslim girl like myself, blending into the community was especially hard, as my appearance draws attention, and at times caution, everywhere I go. Though it may be understandable for the public to fear those who look similar to the bad people they see on TV due to the impact of terrorist attacks happening all over the world at that time, the fact that we failed to overcome the stigma that was fueled from lack of understanding of each other's country, culture, and religion was extremely frustrating. This, of course, was just a fraction of my experience during university days which was filled with beautiful memories, but this experience was what led me to become the person I am today.

The number of foreigners in Japan has continued to increase for the past 7 years, where even in small cities like Niihama now has approximately 1,400 foreign nationals calling it home. This is not the number of “guests” who will return home in a week or two, but instead, is the number of “colleagues” who are currently working in the same office, and “neighbors” living in the same apartment building. I can’t help but wonder, is Japan really ready to accept so many foreigners into the community? It must be very scary for the local community to see the number of foreigners they don’t know increasing around them, but if I may voice out the inner thoughts on behalf of the foreigners, I would say that “we are scared too”. So, in times such as this, how do we learn to live together?

There’s a saying from my home country Malaysia that goes “Tak kenal maka tak cinta”, which translates as “you can’t love what you don’t know”. People tend to be afraid of what they don’t know. Not understanding leads to fear, and fear leads to hate. The only way to break out of this loop is for us to get to know and understand each other. And this cannot be done through policies or rules created by the country or the government. It can only be done when we, the people, take a step forward and nurture our hearts to learn and accept our differences. I truly believe that if each one of us learn to open our eyes, minds, and hearts, it will slowly, but surely affect the local community, and eventually create a better society for us all.

“O mankind, surely We have created you from a male and a female,
and made you into nations and tribes so that you may know each other …”
Chapter 49: Al-Hujurat, Verse 13

( By Farah Mansor )

*The opinions expressed in this article are the author’s own and do not necessarily reflect the views of organizations affiliated to the author.

 

 

 

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